明治新政府は、徳川時代の貨幣の混乱を改めるため、いちはやく貨幣の改鋳と統一にのりだしました。そのため、まず外国製の機械によって貨幣を製造することを決定し、大阪の川崎に貨幣製造工場の建築を開始しました。設計はイギリスの建築技師ウォートルスが当たります。こうして明治3年(1870)11月には、大阪に純西洋式の貨幣製造工場が完成し、明治4年2月、盛大な開業式が行われました。本写真の含まれる「公文附属の図」は、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました。